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#46 目指す動作能力について

ある対象者の獲得可能であると考える歩行(能力)は、現実的にはセラピストによって違うことがあります。歩行に限った話ではないですが、自助具の有無や種類、装具の有無や種類、歩行の実用性のレベル、そういったものに違いがあるということです。

獲得可能と考えていた歩行(能力)と実際の歩行(能力)に差異が生じることはあると思います。考えていたよりも良く歩けるようになった、もしくはその反対というように。

獲得可能であると考える歩行(能力)は、今までの経験だとか文献だとか、様々な要素を統合して考えるかと思います。そして介入しながら軌道修正と言いますか、当初の見立てとは違ってくることもあると思います。

ここでまず確認しておきたいのは、「獲得可能である最大限の能力を得るためには?」だとか、「セラピストによって違うのはどうなのか?」とったことについて言及するつもりはありません。電車に乗っていた時にふと思ったことを書くだけです…。

歩くためには立位をとる必要があります。手段を限定しなければ、介助、自助具、装具の有無に関係なく、とにかく立位をとるということです。立位がとれないのであればまず立位をとれるように介入する必要があります。

立位がとれるのであれば、介助、自助具、装具、代償運動の有無に関係なく、摺り足であろうが過剰に内転もしくは外転していようが、とにかく下肢を振り出すことが必要になります。立位で下肢を振り出して前方に移動出来れば、それは歩行と言えます(言えるかも知れません)。

様々なケースがあるにしろ、現状よりも歩行の実用性を上げることを目指すと思います(可能な症例の話です)。その際に、介助、自助具、装具、代償運動を利用することはよくあると思います。それらは何かを補うためですが、その何かはいつまでも補う必要があるのか、いつかは補う必要がなくなるのか、はたまたずっと補う前提で進めるのか、そのように色々考えられると思います。

補うとして補い続けて自然に要らなくなるケースもあるかも知れませんし、補い続けることによって補われる機能が学習性不使用を来すケースもあると思います。将来的に要らなくなることを目指すのであれば、学習性不使用を来さないよう介入する必要があります。

「自助具や装具を使用して歩けているから、その方法でとにかく練習して退院を目指す」というケースもあると思います。入院している場合は期限がありますから、現実的にはそのように折り合いをつけることもあります。

初期から自助具、装具、代償運動を利用する歩行を前提として介入するのか、そうでないのかでは分かれ道になるかも知れません。本当に様々なケースがあるので一概には言えないことはもちろんですが、そういった前提であれば機能の向上は二の次もしくは手をつけずに、自助具、装具、代償運動を利用した歩行をとにかく学習することに重きを置くかも知れません。

「歩けるなら手段は何でも良い」という考え方ももちろんありますが、対象者本人が本当にそう考えているのかということ、介入によってはもっと歩行能力を上げることが出来る可能性はないのか、そういったことは常に頭の中に入れておく必要があると考えています。

「機能ばかりに目を向けて…」という批判がありますが、「ばかり」だからであって、「機能」を軽視・無視するのはどうなのかと思っています。機能以外の面に介入するだけなら理学療法士でなくても良いと思いますし、より高いレベルで折り合いをつけるのであれば、機能と動作の両方の面から考えられる専門性は必要だと思います。

そのためには、いつまでも運動学的な観点のみで捉えようとしたり、様々な技術を学ばずして否定したり、視野を広げないことが専門性のように振る舞ったりしていては、どうしようもないと思います。どうしようもない状態で先を見通しても、たかが知れた目標になるかも知れません。

転倒のリスクが高くとも、歩行の耐久性が落ちても、「杖歩行よりも独歩だ」ということではもちろんありません。そうではなくて、杖は何の機能を補っているのかということ、その機能は向上する余地はないのかということ、あるとすれば具体的にどのような介入があるのかということ、例え杖歩行だとしても独歩もある程度可能な杖歩行と、杖が不可欠な杖歩行では予備力が異なります。

「杖があった方が安心」と、「杖がなくては不安」では違うということです。杖を使用することのデュアルタスク性といったこともありますので、必ずしも杖歩行が独歩より簡単だというわけではありませんが。

セラピスト側の機能を向上させる能力(機能と動作の関連性を捉えて動作能力を向上させる)を磨くことを止めて、「歩けるなら手段は何でも良い」だとか、「機能ばかりに目を向けて…」という批判はおかしいと思います。今回は歩行を例に書きましたが便宜上のことで、「歩行に拘るべき」だとか、そういう趣旨はありません。ただ歩行を独立した動作と考えていなければ、「歩行のための歩行」という観点にはならないとも考えられます。

獲得可能な動作能力には限界があるのは当然ですが、その限界がセラピスト側の能力に依存しないようにやらないとダメだなと、自分自身に言い聞かせます。そもそもブログは自分自身に言い聞かせる部分も多いにあるわけですが。「難しいことが出来るから専門職だ」と、誰か忘れましたが仰っていたのを思い出しました。そういう面もあるかも知れないなと思います。

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