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#31 教育と根気について考えてみました。

昭和3年発行の曾祖父の著書より抜粋。

以下抜粋。

『教育といふものは、強ち、文字あつてから後に始まつたものでもない。書籍のなかつた太昔の世にも、教育はあつた。文字のない教育、圖書(ごしょ)のない教育、それは、人を中心としての教育、人の霊を以って人の眞性を善美に仕立てるの教育であつた。

教へるものと、教へられるものとの間に、師弟の禮(れい)と謂はうか、整然として、倫序の折目正しい格式、厳守せらるべき規準がなくてはならぬ。それを、現代の術語で言へば、管理ということに當(あた)る。

善いこと、正しいこと、眞なること、美(うる)はしいこと、一切、人の知るべきことを教へ、知識を授け、道徳の綱要をも授ける。それが教授といふもの。

一つ教へたなら、三たびも、八たびも、心ゆくまで、めいめいに習はし、ニつ三つ授けたなら、十たびも、百たびも、熟れるまで慣れしめ、心に染み、身に着くまで、反復、修行せしめる。それが、訓練といふことに當(あた)る。教育に、管理、教授、訓練の三要務あること、今更の事でない。』

抜粋終了。

教育について書かれているものです。90年ほど前のもので、時代背景も違うでしょうし、主に学校教育に関する内容ですが、著書で言及されていることは今でも共通したことが多くありました。

今の仕事も教育的な要素はあると考えていますし、それこそ理学療法学生の実習は教育と言って良いと思います。

「自分で考えて下さい」というセリフ自体は、ケースによってはもちろん使うことはあると思いますが、教える側の怠慢を正当化するセリフとして使用するのなら、仕事の手抜きや放棄に繋がると考えます。「自主性」という名の責任転嫁は存在するように感じます。

算数を教えるべき学年で、算数を教えずに数学を教える、理解出来なければ、「何故わからないんだ、もっと勉強しろ」というのは滅茶苦茶だと思いますが、似たようなことはあるのかも知れません。

相手の理解度、到達度に合わせるということで言えば、教育も臨床も同じとも言えると思います。相手が理解出来ない、出来るようにならないのは教育者自身に原因があるかも知れないということを、「教育者自身は」考えていないと、本来は上手くいくはずのことも、上手くいかないままかも知れません。

念のため確認しておきますが、学級崩壊などの学校教育現場の問題は、教員の責任だという話ではありません。あくまで例え話です。全て教育者の責任だという話ではないということは、強調しておきたいと思います。

対象者に対して、「やる気がない」「才能がない」と、上手くいかない原因が対象者にあると考えたとしても、実際は教育者が「やる気にさせられない」「才能を引き出せない」のかも知れません。

これは臨床における患者さんが対象でも同様で、年齢や障害などを理由に、「良くならないのは仕方ない」と済ませていては、可能性があるにも関わらずそれを見出すことを放棄することに繋がるように思います。もちろん明らかに自身の立場ではどうすることも出来ないことはあります。

「効率の良さ」を教育に求めるのは無理があります。というよりも、効率の良し悪しが目的ではなく、対象者が理解する、出来るようになる為には、とにかく地道に続けることになりますから、対象者にとっても教育者にとっても「効率の良し悪し」ではなく、成果を出す為にとにかくやるということになると思います。

「効率良く成果を出す」というのは、短期間で簡単にというよりも、時間も労力もかかるかも知れないけれども、出来る限りよりベターな方法を選択し実施することによって、成果を出すことだと考えています。もちろん関係性の構築が不可欠であることは前提です。

知識と技術を高めることを怠らないことも必要ですし、諦めの悪さと言いますか、根気というのは必要だということを自分自身に言い聞かせながら書きました。ついつい手を抜きがちなので。

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