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#15 分からないものは分からない

いつだったか野球中継を観ていて、左打者が空いている三遊間を破るサヨナラヒットを放つという場面があり、その場面を観たある人が「たまたま良いところに行った」と言いました。

打ち方を観る限り意図的に打っていると思いましたが、考えてみると野球経験者やある程度試合を観ている人でないと、そのような技術があることを知らなくてもおかしくないですね。こういうことは、例えば他の専門職の技術にも共通してあることかも知れません。

「そんなことあるわけない」という判断は、現状の自分自身では理解出来ないことであって、本当は確かに存在する可能性があります。自分自身を基準に完全に否定することが出来るのであれば、自分自身が絶対的に正しいことが前提にあります。

科学的に否定されていることであれば、自分自身のみが基準ではありません(覆されることもあり得ますが)。健康や医療分野でいわゆるトンデモが批判されるのは、科学的にみて効果がないばかりか、害を及ぼす可能性が高い、解決出来る可能性が高い方法があるにも関わらず、そこに行き着かない人が出てくるなどが理由として考えられます。

そのようなケースは今回は置いといて、例えば、理屈はよくわからないけど、あるアプローチによって明らかに変化した場面に遭遇した時に、「理屈が分からないから認めない」「研究論文に書いてないから認めない」という態度はどうかと思います。何故そうなるのかを考えた方が得るものがあるように思います。

「もっと違った視点があるかも知れない」「自分は間違っているかも知れない」と考えていると、最初から否定せずに考える機会を得られるでしょうし、相手の話に耳を傾ける、意図を汲み取ろうとすると思います。「自分が正しい」ことが前提だと、相手の何処が間違っているのかを探すだけの作業になりかねません。

私が学生の時に担任の先生が、「自分で考えることは大切だけど、自分の中にないものはないから、外から得るしかない」と仰っていました。この言葉は印象に残っていますし、納得しました。

自分にはなかった考え方や視点を得ることで観えてくることがあると思います。例えば学生が臨床実習で見学をする時に、理学療法を進める上での環境、実施する内容と順番、回数や実施時間、休息時間、立ち位置、触れる部位と触れ方、言葉の選択や声のトーンなど、意図を持って選択や調整をするという認識がなければ、「何となくやっている」ように見えるかも知れません。

同じ光景でも、「何となくやるものだろう」と考えていると、何となくやっているように見えやすくなり、「意図を持って選択や調整するものだろう」と考えていると、観え方が違ってくるでしょうし、何か気づくこともあると思います。

話は逸れましたが、自分自身の中に存在しないものに触れた場合、「分からない」ということもあると思います。現時点では「分からない」ことを受け入れて保留しておけば、いつか繋がる可能性があります。

例えば、分からない本を否定して手放せば読み直すこともないでしょうけど、保留していればいつか読み直すかも知れません。読み直した時に、「ああそういうことか」「今は分かる気がする」と気づくこともあると思います。本でなくても、「あの方が仰っていたのはそういうことか」と、随分時間が経ってから気づくこともあると思います。

そのように考えていくと、「分からない」のは、現時点の話かも知れません。「分からない」ものを否定や肯定をすることは、個人のポリシーや嗜好が根拠になり、対象そのものに迫っているわけではありません。このように知識がなくても否定と肯定は可能ですが、批判は別です。

批判する為には相応の知識が必要になります。否定と批判を混同すると、個人のポリシーや嗜好レベルの話を批判と捉えるが故に、建設的な議論にならないかも知れません。批判でも否定でも肯定でも、少なくとも自身の専門分野の話であれば、個人のポリシーや嗜好を根拠にすることは避けた方が良いと思います。個人のポリシーや嗜好は誰も否定出来ないので、それを根拠にするといつまでも噛み合わないですね。

こういうことを書きながら、私自身も陥る可能性あるなと感じます。「狙ったところに打つ技術なんてあるわけない」「狙ったところに打てる人がいるわけない」と、自身の専門で同じようなことを言わないように気をつけたいと思います。

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